Tの拾遺

(テキスト作成は1997年)

TFのパトスは 証明されたのか?

本章は、ならトリトン同盟誌「大西洋」に寄稿した「海のトリトン大探求」に、大幅な追加・追補を行なったものである。TVアニメ「海のトリトン」の様々な事象について、虚実綯い交ぜて解説(?)を試みている。しかしながら、最も不思議な事は、この作品を執念深く追い回す自分自身なのである。

この作品の製作者は、視聴対象を年少の男の子に設定していた。確かに、パイロット・フィルムは、その意図を充分過ぎるほど反映している。幼児向けの雑誌に、同時連載された作品も同様で、トリトンは10歳未満に見える。しかし、結果は周知の通り、14歳(13歳?)の少年が主人公である。更に、スリムな体型や古代ギリシャ風の衣装、少女キャラと同じ処理を施した顔立ちや非マッチョな性格といった、冒険少年でありながら極めて中性的な造形になった。
また、作品構造の特色として、主人公トリトンが髪の色によって、既成社会から疎外される異人というパーソナルを持っている事。主人公は来襲する敵を、仲間たちが強要する男性的論理に嫌悪しながらも打破し、その結果として通過した後には屍の山が築かれる事。最終回に至っては、その仲間たちが信奉していた論理すら、依拠を失う事。以上があげられると思う。
このような作品を、多数の女性ファンが支持した要因として、種々の文献をつなぎ合わせると、乱暴な解釈だが次のような事由になるだろうか。
女性TFは、トリトンとピピの両方に自己投影し、その空想によって願望や欲求を吸収しようとした。それは、生物学的性別に基づいた社会的規制、文化的規制等に対して、精神的性別の示す抵抗を解消する事。或いは、自己不全感とナルシシズム的補償を原動力として、最終的に自尊心を満足させる事である。これを男性キャラという名の、神秘的な幻獣同士によって恋愛成就させたものが「やおい」であろう。そして「海のトリトン」には、二人で一体の自己投影可能なパーソネイジは存在したが、もう一方の相手が不在だったのである。「海のトリトン」は未完の自己創造神話として、刻印されたのではないだろうか。未完こそ、最も効果的なエンディングである。

こういった行為は、社会制度の変化や大衆文化の普及と関連が深い。日本の場合、明治以来の旧民法が、厳然と家父長制を成立させていた。それ以前の日本は、古来よりの母系制社会を色濃く残していたはずである。その一端は、ルイス・フロイス「日欧文化比較」や日置昌一編「日本系譜総覧」から見てとれる。この旧民法も戦後、818条及び834条が加わり変革された。それから、「トリトン」放映まで二十数年。一世代交代に相当する時間が経過している。
この戦前の制度が、どれほど苛烈なものかは実感できないが、原作トリトンの終盤に片鱗を垣間見る事ができる。トリトンが自爆死した後、ピピが跡目を継がず、幼い長子ブルーの手に一族の命運が託されるのだ。手塚治虫ほど、男という生き物に懐疑的な作家ですら、このような話を作ってしまう。翻って、「海のトリトン」を含め、一貫して父親不信の物語を創り続ける富野監督のメンタリティも、この旧体制と関わりがあるのだろうか。そして、基底に流れるそれを、女性ファンは嗅ぎつけたのであろうか。

では、野郎TFは何故TFになったのだろうか。それは、元々「海のトリトン」が野郎向けに作られているからである。と書いてしまうと身も蓋もない。あえて言えば、「オタク」の素養があったから、という事になる。今更だが、オタクは「族」ではなく「場」である。個性ではなく、孤性を基本にした強固で脆い場を形成している者である。強固なのは排他性であり、脆さは消費者として依存度が高い事を指す。また何故か、外見及び肉体的侮蔑を伴っているため、オタクは放送禁止用語である。つまり、「めくら」や「きちがい」と同義らしい。
これらオタクの関心事項は、「スター・トレック」の米国男性ファンも同じ傾向である。プレミアム・アイテムの収集やハードウェア分析等のノンフィクション系への執着が強い。前段の、女性ファンの動機と表裏一体と考えれば、何らかの抑圧や欠損に対する補償作用の結果である。しかし、野郎ファンのそれをイメージするのは困難である。精々、男性的論理の下に蠢動する社会で、永続的に競争が続く事ぐらいである。そこからの精神的退行の結実が、野郎ファンのオタク化、TF化の原動力という事になる。なぜ退行なのかと言えば、逃避するためには、現状が檻の中である事を認識しなければならない。オタクは、逆に二重の檻の中へ入っている。檻の中で開き直ったとも思える。この辺の状況は、中世の貴人と庶民のダンディズムの関係、即ち「通」や「粋人」と呼ばれた手合いと共通するものが感じられる。
この檻から抜け出るには全てを捨て去るか、発狂するしかない。目覚めた人にならねばならない。(藁)

かつて、某作家が『人は小説の中に自分の病気を注ぎ入れるものなのだ。自分の感情を繰り返し再び提出してみて、それで病気を克服するんだよ』と、のたまわった。TFである事、あり続ける事に、多少なりとも意義を見出すとすれば、眼前で反復される、自分の病気を見つめ続ける事である。正体のしれない葛藤や不全感ほど、質の悪いものはない。TFは、自分を提出する事により、ヒーリングではなく克服を行なっているのだ。状況を相対化し客体する力こそ、この混迷の時代を駆ける唯一無二のアイテムである。
ただ、この事は、現状では物量的にマイノリティとはいえ、常に主流を占めてきた女性TFについて言える事である。歴とした書籍扱いである評論「『海のトリトン』の彼方へ」を上梓したのも女性TFである。男性TF側からは、その種の提示は無い。一般化の無意味な、とことん個人レベルである野郎TFは語らず、墓場まで持っていくだけである。