(テキスト作成は1997年) 第1話 海が呼ぶ少年脚本・松岡清治 絵コンテ・斧谷稔001◆オーバチュア◆「青い海と空と珊瑚礁をバックに戦う不思議な少年…」、時系列を無視して事件の真只中(In medias res)から始まる大胆なオープニングは、現在でも珍しい格好いい手法である。無論、「海のトリトン」が最初というわけではない。自身、同じ手法で始まるセルバンテス「ペルシーレス」の解説によると、紀元三世紀に書かれたヘリオドロス「エチオピア物語」が最初らしい。現代では、横溝正史「仮面劇場」が例として取り上げられている。この「ペルシーレス」の導入部は、怒涛逆巻く海、蛮族、がんじがらめの美青年…とケレン味たっぷりである。作品のモデルは、セルバンテスが当時見聞した天正少年使節であるらしい。 近々のアニメ作品では「ハーメルンのバイオリン弾き」がこの手法を用いている。冒頭にハッタリをかました瞬間から視聴者のイメージも走り出すので諸刃の剣とも言える。名は出さないが失敗作も幾つかある。原典に於いて、すでに完成されている作劇方法なので、作り手は心してかかる必要があろう。 002◆猪首村の所在地◆トリトンの姓は、原作トリトンで唯一登場する「矢崎」であるが、村の名前や位置は特定されていない。そこで、あれこれ想像をめぐらせる事になる。
003◆ツバメ◆一平が猪首岬の洞窟へ降りる際、これみよがしに燕が飛来する。燕は、春の到来の象徴であり、且つ「オデュッセイア」ではアテナの化身である。トリトンが、これから行なうであろうポセイドン族への復讐を、オデュッセウスの時と同様に見守る神の視点でもある。神の視点つまり視聴者の事だ。 洞窟のアレゴリーは子宮であり、そこに赤ん坊トリトンを置くのは直截的な表現である。 004◆洞窟へ降りる◆登山に心得のある方が、第1話を見ると多分驚くのが、猪首岬の洞窟への登降シーンである。貧弱なロープ1本、草履ばき、しかもバックアップ無し。更にディッセント/アッセントを体を倒しながら行ない、支えは吾助のみ。そして、トリトンを背負って登ってきた一平は呼吸も乱していない。 児童向けムックで「海のトリトン」は超人ヒーローに分類されているが、真の超人は一平かもしれない。太い椰子の木も、鎌でスカッと切り倒す事ができるらしいし…。恐るべし一平! 005◆水棲人間◆水、海への恐れと憧憬が、人魚を作り、水陸両棲人間をつくり、海中にのみ適応した人類を作り出してきた。明確に海底人類テーマを打ち出した小説は、H・G・ウェルズが最初であろうが、イメージ自体はそれ以前の作品にも散見される。海洋生物の擬人化というのも早い時期から見られる。 ヒトの陸棲動物らしからぬ生態を説明するために、ミッシング・リンクを海に求める説がある。これは、決定的な否定も肯定もされず、今日に至っている。 そのような機構を持たないトリトンには、鰓の代行が可能な部位として、頭髪もしくは皮膚呼吸ぐらいしか残されていない。そうなると、髪の毛が無くなればサムソンのように能力を失って、行動が陸上に限定される事になる。映画「緑色の髪の少年」で、少年ピーターは髪の色によるトラブルを避けるため、坊主頭になった。トリトンが、髪の色を気にはしていても丸刈りにしなかったのは、本能的に不都合が生ずると気づいていたのかもしれない。 ガス交換、栄養摂取、体温維持…、半魚人ギルマンやV・Hのオルバス、或いは海底原人ラゴンとは違い、コンパクトで無駄の少ない水棲人間を作るのは大変である。 006◆一平の船◆無動力の和船造りの木造漁船。5トン未満クラス。まき網漁に使用される事が多いが、止め絵では一本釣りである。このクラスのものは、現在ほとんどがFRP製か、グラスファイバーにとって替わられている。 007◆異種との意思疎通◆人間以外の動物との会話、古代からの夢、そして永遠に夢であるもの。夢の象徴としてのアイテムは、ききみみ頭巾、ソロモンの指輪、ささやき貝、アカシヤの種子、知性化…、枚挙に暇がない。 しかし、最初は重宝だが、やがて煩わしくなり、最後には放棄されてしまうのもコミュニケーション・ツールの宿命である。 生来この能力があったとしたら、まず心配になるのが、収穫される事を拒み、助命嘆願する農作物・家畜・魚介類を食べる事ができるのかという事だろうか。あと、プライバシーの喪失、情報過多による疑心暗鬼と続く。 ただ、これらは単に心の問題であり、局面に応じてスイッチを切り換えるのが生き物というものである。近年、動物の観察が巧妙になり、ヒトと同じような同族殺しや同族間のリンチが、野性のイルカにさえ発生する事が確認されている。外挿される条件が同じなら、ヒトと同様の反応を示すらしい。 ならば尚の事、「アメリカ・インディアンの詩」にあるように、ある瞬間・ある条件下では対話が可能なのかもしれない。ヒトの思い込みや暗示ではなく、異なる視点や空間認識から発せられる意思を、理解できるか否かは更にわからないが。この欠落を埋めようと試みたのが、近年の海洋SF及び海洋生物SF小説になろうか。 008◆完全な捨て子◆岬の洞窟に捨てられていた赤ん坊トリトン。それは、『男の一滴の精液と女の子宮の一個の卵子でつくられたのではなく、海の泡、海の塩から作られた』かのようでもある。 「海のトリトン」は、物語が主人公の遍歴によって成立している事から貴種流離譚の趣きを持つが、ひとつの指針として亀井勝一郎が示している三条件を、実は満たしていない。そもそも、トリトンは神・貴人の末裔ではない。「オデュッセイア」「衣通姫伝説」「伊勢物語」「義経記」(ドッと飛んで)「吸血鬼ハンターD」等と比較するまでもない。トリトンもピピも両親が不明なのだ。あの、メドンの預かっていたホラ貝も、昔日にポリュペイモスが放った罠の臭いが濃厚である。ホラ貝にはトリトン族にしか聞けぬように、そして必ずポセイドン族に接近するように、メッセージが吹き込まれている。 長い遍歴によって高まっていたエネルギーも、最終回で雲散霧消してしまう。まるで、不条理であるがゆえに我信ず、といった不可知論めいた方向へ走ってしまう。あらかじめ、何もかも失っている主人公というモチーフは富野監督作品に何度か登場するが、「海のトリトン」は最も典型的かつ苛烈ではないだろうか。 009◆不透明な海◆「海のトリトン」の海は、陸から内部を覗き見る事を徹底的に拒否している。意味する所は明白で、これが異世界への入り口である。そして、偏光を感知できない人間の視点のカリカチュアなのだ。 010◆通信クラゲ◆元はカツオノエボシであったが、高度なパターン認識能力と超音波発振受信個体を備えたバイオニック・ソノブイである。但し、その代償として防御個体を失っており、攻撃を受けると成す術を持たない。哀愁の消耗兵器である。従って、原作トリトンのように、クラゲがトリトンを取り囲み刺胞(蛋白毒)で狙うという場面は全く存在しない。 クラゲの発する超音波は、イルカの可聴域にあるので200KHz程であろう。無論、人間の耳には聞こえない。水中での音速は秒速約1,500m。クラゲは、七つの海に張り巡らされたネットワークによって、リレー通信を行ない情報を伝達するが、日本から大西洋までは遠い。約三時間はかかる計算である。 それでも海路を行くトリトン達よりは遥かに速いのだから良しとしよう。マーカスが仮に五百匹いたとしても、この広大なエリアをカバーするのは不可能に近い。 では、これを守備しているクラゲはどれぐらい要るのか。海域によって密度にムラはあるだろうが、最低二千万匹は必要であろう。しかも防御個体がないので消耗が激しい。カツオやマンボウに喰われる事も考えると、補給などで賄っていてはとても追いつかない。自然繁殖で補えるようになっているとは思うが、通信クラゲのポリープ・プラントなどというものがあった日には、ポセイドン族の苦悩の深淵を見るようでゾッとしない。(作ってからバラまくのも大変だし) 011◆マーカス◆形態はタツノオトシゴ、主力部隊は雌によって構成されている。マーカスが前線に赴かず、伝令を任務とするのは個体数の少なさとテレポートのリスクが大きいためであろう。 マーカスの、唯一にして強力な武器・毒針。あの屈強なポリュペイモスを瞬時に麻痺させ、死に至らしめた毒は何であろうか。海洋生物の毒は、サキトキシン、ゴニオトキシン、ネオサキトキシンがある。それぞれの陸人に対する致死量は0.5mg程である。しかし、海洋毒で最強のものはパリトキシンである。かつて、ハワイ原住民が矢毒として用いていたもので、スナギンチャクの一種から分離され、毒性はフグ毒の五十倍である。強力であるが、サリンなどと同じく水によって分解・無効化される。陸人が、この特殊な有機化合物の全合成に成功したのは、8年前の事である。マーカスは、この毒を体内で効率良く合成する事が可能なのであろう。 マーカスのいまひとつの特徴として、必ず発する言葉「ガイ!××」は、ギリシャ語の呼格に由来していると思われる。 012◆ギンザメ◆いわゆる、全頭亜目のギンザメではなく、獲物を求めてギンギンギラギラしているギンザメである。鮫はシャチとともに海洋生物最強であり、ポセイドンの悪のイメージを代表している。 独自の進化の道を歩んだ鮫は、生存するための機構が著しく発達している。外皮は「サメ肌」と呼ばれる通り、ヤスリのような楯鱗で覆われている。生殖も交尾で行なう(鮫の交の由来)上に、大部分が卵胎性である。体液も普通の魚より塩類濃度が遥かに高く(海水より2%高い)、更に浮袋が無い。そして、極めつけが歯である。食性に応じて様々な形態をとっているが、魚などを食べるものはナイフ状の鋭利な歯をしており、その縁には鋸歯を備えている。この歯は常に五列ほどのスペアが用意されており、いくらでも生え変わる。(十年間で二万五千本という記録がある)。 鮫の感覚器官は、特に臭覚が発達しており、その探知範囲は四百〜五百mに及ぶ。加えて、先端部にあるローレンツィェ氏瓶と呼ばれる小孔群は、生体電気の微弱な電位変化を感知する事ができる。 このような生物を相手に、互角以上に渡り合う事は普通の人間には不可能である。ナイフぐらいでは文字通り歯が立たない。並みはずれた瞬発力、遊泳能力、潜行持続時間が要求されるのである。 013◆サラマンドラ◆博物学上はイモリ、サンショウウオを指し、欧州では陸生イモリをサラマンダー、水生イモリをニュートと呼び分けている。火に耐えるという伝説から、石綿の元と考えられたり、錬金術では四大元素「火」の精霊とされている。この辺は、荒俣宏氏「世界大博物図鑑3・両生類/爬虫類」に詳しい。 「トリトン」のサラマンドラは、幻獣サラマンダーを基にしているが、全体の印象は紛れもなく、六十年代の東映動画・巨大怪獣の末裔である。そして、サラマンドラの血を浴びたトリトンは、この時点で原作とは異なり、劇中では死なない事を約束される。 |