Tの周縁

泉佐野市に関する退屈な話

ここでは大阪府南部の泉佐野市という田舎町の話をダラダラと書き並べます。
サイト管理人の活動拠点ですが、元・奈良トリ会員以外には判らないよう俎上に上げる事を避けてきました。しかし今般、大阪の陣から四百年でもあり、この機会に私見をひと通りまとめてみる事にしました。

この町は巷間では「第二の夕張」と揶揄されます。なぜそうなったかは「関空「通過都市」からの再生を求めて」(自治体研究社、2000年)に経緯がまとめられています。ただ、「通過都市」という言葉をネガティブな意味で使用するのは誤りで、 元々千年以上も昔から此処は通過される町だったのです。

当頁は、マチの辿った歴史を主要なネタにした、私的で情緒的な地元密着話です。以下、目次リンク。

  1. 概況あるいは、紀元前
  2. 神功皇后
  3. 衣通姫(そとおりひめ)
  4. 聖徳太子
  5. 役小角(えんのおづぬ)
  6. 紀貫之「土佐日記」、清少納言「枕草子」
  7. 東大寺の修理
  8. 南北朝時代
  9. 時は戦国、嵐の時代1
  10. 江戸期
  11. 「見仏記」と「非・見仏記」の境界
  12. 明治期
  13. 大正・昭和〜現在へ
  14. (参考)泉佐野市と交わる街道について

【概況あるいは、紀元前】

位置は大阪府南部の泉州地域。
近畿は火山も無く比較的温暖で、古くから人間の活動が盛んな土地です。現在の大阪市周辺は、数百年も遡ると海や低湿地だらけですが、泉州地域は縄文期にはまとまった陸が形成されていたようです。
和泉市の池上曽根遺跡にも見られるように、古くから人間の生活が営まれてきました。また、大津波などのデザスターによる著しい断絶も無く、歴史だけはたっぷり有るのです。何かの弾みで、縄文時代の大規模遺跡が出土したとしても驚くにはあたらない…、そういうポテンシャルを持っています。

で、実際に出土した縄文期の遺跡が、隣りの泉南市・男里遺跡と向出遺跡、当地・泉佐野市の三軒屋遺跡である。出土品の「石棒」が、文化施設「泉の森」横に展示されている。巨大なレプリカなので、最初は道祖神か何かかと思ってしまったヨ(w)。

調査後はコンビニや一般住宅が建てられるので、見える形では何も無い。

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【神功皇后】(AD_200年頃)

日本中の住吉神社伝説が残っている上に地元すぎて信憑性を欠くが、三韓征伐後に立ち寄られたらしい。皇后のお立ち寄り対象の中には、特異な形状を残す船岡神社(船岡山)が含まれており、こちらの方が濃いように思える(無論、両方に立ち寄った可能性も含む)。

伝説では日根神社(比賣神)と連動し圧倒的にパワフルで、私的なイメージは魔法少女や魔装少女あるいは魔女の類いに近い。

朝鮮半島側に残る記録と併せ、古代のイベントに対する解釈は難儀だ。更に、海を跨いでいるにも関わらず、往来の自由度・密度が異様に高い。明らかに時間軸が一定ではなく、積極的に端折られているような印象すら有る。物語の基本設定すら逆転させる論考もあり、各々の古代国家成立過程も検討されるべきだろう。実際には何が起こっていたのか気になるが、後代の記録は日本側・半島側ともに扱いは慎重にならざるを得ない。

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【衣通姫(そとおりひめ)】(AD_420年頃)

古墳時代中期の事。衣通姫は、允恭天皇(没年462年、仁徳天皇の第四皇子)の皇后の妹であり妃でもある。現代なら育成ゲームのお題か、ドラマにでもなりそうな状況なのであった。当然、衣通姫は同じ土地には居づらくなり、茅渟宮(泉佐野市上之郷中村字衣通姫)に移って来られた。いわゆる貴種流離譚の代表として扱われる由縁である。とはいえ、見える形では何も残っていないのだ。残念ながら、書籍で妄想を膨らませるしかありません。
(※この時期は「天皇」より「大王」「王」の方がしっくりくるが慣例的に)

允恭天皇崩御の後、姫の子・木梨軽皇子が陰謀によって朝廷から命を狙われるのだが、この件は豪族・紀氏との関わりやら、逃れる途上で遭難し没したのが伊予の国(今治市吉海町津島)という事でもあるので割愛します。

後代、紀貫之(872年?〜945年?)が、六歌仙のひとり小野小町を指して『いにしへのそとほりひめの流なり』と評した話は「衣通姫の流」(古川書房、1978年)を参照のこと。

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【聖徳太子】

時代は7世紀。正確には泉佐野市ではなく、樫井川を跨いでいるので泉南市になります。「一岡(丘)神社」の地は、聖徳太子が海営寺を興し、鎮守として海営宮を設けており、その後に行基が海営池も築いた。神社には厩戸王子社も合祀されている。社寺は織田信長の兵火によって焼失したが、Google_Mapの通り発掘された伽藍が復元保存されている。
※ここでは「大阪の街道と道標」に基づいている。「和泉名所図会」では、海営寺は行基の草創となっている。

同じく、聖徳太子の開創と伝わる「壇波羅密寺」は当地・泉佐野市にあったらしい。具体的な遺物が少なく、応永の乱(1399年)での焼失と残材の他寺院への転用やらで詳細が不明だ。平安時代もしくはそれ以前の建造なのは確実らしい。とにかく見える形では何も残っていない。

創建が_612年と伝わる「禅興寺」は新羅金麻蘇(金麻蘇邇)によるらしい。日根荘園図にも別囲い付きで記載されている。伝承には聖徳太子の名が登場する。ここも廃寺である。
また、近辺で「ダイジョウ寺」の発掘調査も行われている。同じく7世紀の創建らしいが何も残っていない。

周知の事実だが、聖徳太子という名は後年の呼称であって、当時は違っていた。誠に単純な推理だが、教科書等では遣隋使・小野妹子を派遣したのは聖徳太子。ならば「隋書」に登場するいくつかの名前(阿比多利思比孤、利歌弥多弗利、等)が本当の名前(音)じゃネ…という話し。
ここに登場する名は用明天皇との説もあるが、最初の遣隋使の際には既に故人である。小野妹子の名が無いとの指摘もあるが、音をあてた「蘇因高」が実は…という話もある。結局、想像と妄想と推測の世界ではあるのだ。

聖徳太子(とその一族)が斯も色々な意味で歴史から消されているのは、やっぱり「隠された十字架」や「日出処の天子」の伝奇的理解の方へ逝ってしまう。後者は某大手新聞に捏造記事を書かせてしまうパワーもある。そんな聖徳太子に絡んだ施設が、こんな片田舎に在るという事に想いをめぐらすのである。

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【役小角(えんのおづぬ)】

泉佐野市から南へ向け、山と海が急に近くなってくる。岬町まで行くと、佐藤春夫「山妖海異」の世界が迫ってくる。東に向かうと、樫井川(大阪夏の陣、緒戦の地)の中流に「ろじ溪」と呼ばれる渓谷にあたる。その先には、役行者の開基とされる葛城修験場の一つ・七宝滝寺がある。

役行者つまり役小角は、7〜8世紀に大和葛城山で修業した呪術宗教者で、「続日本紀」に登場する。護法童子や地主神をも使役するという事なので、イメージとして一番近いのは「RDG_レッドデータガール」の姫神あたりではないかと思う。この作品では山伏が組織的に姫神を護持する。
室町期に著された「役行者本記」(奥書は神亀元年:724年)を始め、「太平記」等にも組織的活動を示唆する記述がある。葛城から吉野熊野に至る地域との関わりは強力で、原作はこのような背景を取り入れたのかもしれない。
他にも「RDG」第1巻での相楽(さがら)親子のやりとりで、石子詰め的折檻の場面がある。出羽三山での修業話や、後半に戸隠山の地主神・九頭竜権現が何の前フリも無く登場する。日本では、山伏や忍者それに陰陽師は必須教養らしい(w)。

当地・葛城の西麓、灯明ヶ岳(鈴杵ヶ岳)・七宝滝寺に残る話で、猟犬が命を賭して猟師をうわばみ(大蛇)から助けた、というものがある。寛平2年(AD_890年)の事。後日に朝廷から「犬鳴山」の勅号を賜った。むろん「和泉名所図会」にも記述されている。

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【紀貫之「土佐日記」】

醍醐天皇の命で「古今和歌集」を編纂した教科書級の有名人・紀貫之は、海洋文学「土佐日記」の作者でもある。土佐湊から京へ帰る道中を、創作も交えて綴った日記形式の作品である。海賊の襲撃を警戒しつつ、黒崎(淡輪村)沖から松林を眺めつつ泉大津へと船を進めて行く。読後の印象は、高橋留美子の読切短編マンガに近い。切迫した状況でお馬鹿な所業が繰り広げられる、黒い笑いを誘うアレだ。

現在の海岸線とは異なるため、情景を正確にイメージできないが、寂寥とした良い感じだったのではないかと思われる。作者・紀貫之は次項の「蟻通神社」とも関連がある。

【清少納言「枕草子」】

世阿弥・作の「謡曲 蟻通」は、地主神の神域を通過しつつあった紀貫之が、ある意味たたられるというお話。「紀貫之家集」に、地主神へ奉納した和歌がある。

清少納言「枕草子」にある「社は」は、蟻通の由来となったお話し。老人の知恵によって他国の無理難題を克服し、敬老を勧奨する。

それぞれの舞台となった蟻通神社(大明神、大巳貴命)は、創建AD_158年と伝わる。元の場所だった熊野街道沿いには石碑が祀られている。現在の社は、やや東側へ移動させられている。祭神であるオオナムチは「暗黒神話」等にも登場する代表的な古代神・大国主命でもある。後代の支配者側による改竄で結局よく判らんのだが。

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【東大寺の修理】

筒井康隆・著「三丁目が戦争です」ではないが、典型的に団地と文化住宅が対向していた泉佐野市東羽倉崎町。

近年、住宅の建て替えに伴い一帯の発掘調査(安松田遺跡)が実施された所、東大寺の再建(1195年、完成)に使用された瓦が大量に出た。当地の瓦窯は史料に記述が無く、発見の報は大手新聞にも掲載された。今は衰退しているものの、かつて瓦の製造は盛んに行われていた(現在の主力産地は淡路島)。東大寺の瓦となると設備規模もかなり大きいはずだが、なぜ記録も伝承も残らなかったのか? フシギだ。

本件の発掘資料本は異例の大増ページとなった。しかし、遺跡は住宅の下である。見える物は何も無い。

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【南北朝時代】

当地・泉佐野市だけではないが、建武中興〜南北朝(1333年〜1392年)の争いへと移る中、各所で山城の争奪戦があった。ここでは土丸山・雨山が対象となり、この時期の有名人・楠木の類族の手により「城の山」となった。土丸城跡からの眺望は、ここに山城を築いた理由が判る景観である。現在は自動車専用道路のため、やや残念な事に…。

この時期のイヴェントは、山間部を舞台にしていたため近畿一帯に広がっており、非常にダイナミックである。必殺死んだフリの楠木正成や北畠氏、足利氏、細川氏、等々。地元でも日根野、樫井、上郷、淡輪、和田、等の各氏が活躍したそうな。

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【時は戦国、嵐の時代(1)「泉州海賊」】

15世紀末(応仁の乱)〜16世紀、様々な勢力が群雄割拠する未曾有の内戦時代へ突入する。

泉州海賊を扱った歴史小説はその文献(「信長公記」等)と共に少なく、和田竜「村上海賊の娘」以外は直ぐに作品名が出てこない。上善寺(現・泉佐野市栄町)は1511年の草創で、当初は西南海岸上善寺山(松原町)に建立されたらしいが、海賊による被害が甚だしいため移築されたらしい。

1576年、前出小説の舞台となる「木津浦の海戦」が勃発する。
翌1577年には雑賀攻めが行われ、一部で海戦に及んでいるが詳細は不明。
1578年、織田方の甲鉄船が完成し、まず丹和沖(現・岬町淡輪)で海戦が行われた。状況から、海賊含む船団と激突したはずだが結果は御存知の通りである。
同年この後、木津沖で毛利方の船団と再戦する。結果は周知の通りだ。

1580年、石山本願寺の和睦後、法主・顕如上人は船で脱出し泉佐野市・佐野川辺りに隠れたという(個人商店の裏薮)。住人の協力で穴を掘り難を逃れたという話が「和泉名所図会」にある。

瀬戸内の海賊が地政学上、圧倒的に優位なのに比べて、泉州海賊は隘路と呼べるポイントを上記の淡輪周辺にしか持ちえなかったのも、資料が少ない(=マイナーな)原因でしょうか。
村上海賊が規模だけではなく、盲船(アルマジロ状態の小早船)・井楼船・車輪船・竜宮船(=潜水船)といった特殊船も用意していた事を考えると寂しい状態です。江戸期にはうつろ船も建造されたりしていますが、もはや戦闘向けでもありません。

信長亡き後1584年、雑賀・根来の反撃があり一部で海戦となっている。しかし翌1585年には秀吉による猛烈な紀州攻めが行われ、その軍門に降った。

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【時は戦国、嵐の時代(2)「泉州地域」】

鎌倉時代から、泉州地域の荘園を管轄していた九条家を排斥したのは根来衆である。根来衆といえば「仮面の忍者 赤影」第3部・暗闇鬼堂と根来十三忍が思い浮かぶサイト管理人であった。

戦国時代には根来衆による城館(佐野城)が建造されていたらしいが、何も残っていない。更に正確な位置も不明で、円田川に挟まれつつ浸水し難い海側エリアの何処か、という事らしい。この根来衆による支配は40〜50年ほど続いたと思われる。

時は流れ、前項にもある「雑賀攻め」が敢行される。織田信長の軍勢が、京都を発って5日目に「佐野の郷」で陣を張っている。その4日後に志立(泉南市)へ進み軍を二手に分けた。佐野の郷は泉佐野市の事だが、通過されるだけっしょ。

同じく前項の、豊臣秀吉による紀州攻めが十万の兵を引き連れて行われた。この戦さで泉州は焼土と化し、無事だったのは貝塚市の願泉寺周辺だけとの事らしい。根来寺の影響がまだまだ濃かったのでしょう。坊主憎けりゃ、あんたも憎い的な…かな。

その前日譚として、秀吉軍の最前線基地であった岸和田城が根来・雑賀軍の攻撃を受けた際に、蛸の大入道(クトゥルーかデイヴィ・ジョーンズみたくナ?)と蛸の軍団が岸和田城と町を守ったというお話しがある。現在の「蛸地蔵」の由来である。この説話は「和泉名所図会」を含む複数の民話集に収められている。ここでは「熊野まんだら街道」(神坂次郎・著)を参照した。

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【時は戦国、嵐の時代(3)「大阪の陣」】

大阪冬の陣〜夏の陣。大坂城から遠く離れた片田舎の泉州佐野・樫井で、夏ノ陣が始まったのは何故だったのか。

経緯をガッツリまとめた司馬遼太郎「城塞」が刊行されたのは1972年。カンケーの無い話だが、「海のトリトン」の初回放映直前です。当時の歴史解説TV番組は「日本史探訪」で、管理人はなぜか「黒田如水」の回を録音してました(Wikipediaには記載が無かったが…)。

結果から言えば、牢人の集団と経験不足の城方による兵力のムダ使いだった、という寒い話しです。隊を率いた塙団右衛門直之は、名を揚げるために遮二無二戦った事で有名ですが、最期は味方も全滅のため状況を正確に語り継ぐ者が無い。しかし、墓碑が敵方だった紀州藩士の手で建てられたのは、せめてもの…でしょうか。

石碑・墓碑として、樫井古戦場跡(樫井川、明治大橋のたもと)、塙団右衛門の墓碑淡輪六郎重政の墓碑(新調されてます)、坂田庄三郎の墓碑(船岡公園内)が保存されています。
また、塙団右衛門を扱った書籍(上記「城塞」も含む)もそれなりに。

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【江戸期】

室町時代には既に定期市がたっていたらしい当地だが、江戸期に入ると各種生産品(木綿・黒砂糖・菜種油・肥料・塩干魚、等)が「輸出」されるようになる。いわゆる豪商=長者さまが誕生していた。唐金家は、井原西鶴「日本永代蔵」にも登場する。日本各地に支所も設けていたので、東北や九州地域にも名が残っている。

回船問屋・食(めしor食野(めしの))家が有名だが、当時の栄華は現在から推し量れない。江戸末期から明治維新にかけて没落したからである。あまりの激しい凋落ぶりに、アレではないかと思ってしまう(そう、座敷童だ)。
実際には、藩主等への貸し倒れが原因なのだろう。欧州での貴族VS商人の残像を見るようである。

食野家所有の屋敷については、「泉佐野市史研究」第7号・8号にも編纂されている。中でも、別荘が横浜市・三溪園の臨春閣として移築されており、修復・保存されている。当地・泉佐野市では跡地を示す石碑(井戸の側石らしい→Google_Mapへ直結)と、かつての名残りである倉庫群(=いろは四十八蔵)(市のHP)ぐらいだ。様々な遺物が日本全国に拡がっており、全貌は定かではない。

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【「見仏記」と「非・見仏記」の境界】

ここまでは、かつて立派な「モノ」があり、ほとんどが既に失われた、という話でした。無いモノの話だけでは寂しいので、現物を見て愛でる「見仏記」的なものにもふれておきます。

とはいえ、現存しているものに関しては、一通りまとめられています。教育委員会で編纂・発行している「泉佐野の文化財」を見るのが手っ取り早い。観光ボランティアが製作している手書き地図も配布されており、市役所のWebサイトからダウンロードできる観光地図もある。配付されているパンフレットやフライヤーを覧る限り、いち押しは犬鳴山と日根荘らしい。

管理人が何か付け加えるとしたら、七宝瀧寺の「天狗行者椅像」あたりか。比較的新しい彩色木像で、江戸期に妖怪が流行した際の落とし胤ではないかと思っている(「魔王」像も天狗)。

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【明治期】

当地では幕末〜明治期にかけ、綿布業からタオル・綿スフ織物が発展している。タオル生産の詳細は、別項の「御多織留小僧の部屋」を参照の程。たかがタオル、されどタオル。周辺産業(紡績・織り・染工・捺染・仕上げ・織機等の金型や部品等)は広範に渡っている。

前出の古刹・上善寺に残る地図「佐野町場絵図」は、明治41年の合祀以前に製作されたものである。つまり、当時の神社が網羅され、鉄道も国道も無い時期の状況を知る事ができる。絵図には若干の歪みも見られるが、ほぼ正確に方位・街道が記されている。合祀によって春日神社に遷座された佐野町の29社中、7社が絵図上に確認できる。現在の南海鉄道・泉佐野駅下り正面に神社があったわけだが、全て跡形も無い。

同じく「旧佐野町場復元図」の高札場脇には御札場があったのだが、現在は和菓子屋「なかむら」になっている(w)。食野家跡の南側には法楽寺があったが、同じく今は無い。

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【大正・昭和〜現在へ】

大正期以降ともなると、全国津々浦々と共通した事柄も多くなる。地場産業の勃興と衰退。続く、商店街の発生と衰退である(タオル産業の隆盛は、関東大震災とも関連があるらしい)。

かつての商店街がどんな具合だったか知るには「目で見る泉州の_100年」(郷土出版社、1994年)等の参照をお薦めする。
現在は全滅している映画館も、昭和30年前には南海・泉佐野駅近辺に3館あったらしい。娯楽施設・銭湯、等も変遷し滅んでいくのであった。また、大正期に始まるワイヤーロープ・伸線(例:ワイヤースポーク等)も同じく。また、玉ネギや水ナスに代表される農業、青空市場と水産業、その後の食品加工(製糖、油脂等)についても然り。

昭和期に入り、管理人宅含む周辺は大工事に見舞われた。戦中の旧国道26号線建設と、戦後の府道247号線の整備である(「佐野町場絵図・改」にて確認可能)。この府道工事は、大きな地蔵堂や管理人宅を削って中断した。特に遺跡が出土(※)したわけではなく、資金が無くなったのだ。既に70年が経過しており、「いいかげん何とかしろヨ」な状態である。そこへ関西空港建設に絡む泉佐野市の総合計画大失敗が発生した。
※管理人宅含む一帯は「若宮遺跡」と呼ばれる室町期辺りの集落跡があるはずだが、見なかった事にしておこう。

ようやく、冒頭の内容につながった。
当面の課題である商店街の衰退については、諸々の書籍が上梓されている。歴史中心に辿ってきたので、これらを含む街の未来図は別頁にまとめる事とした。地元密着ネタすぎる上に、偏固にならざるを得ないので…。

【閑話休題】
※管理人の一族は遺物(刀剣等)から推察するに、足軽に毛が生えたぐらいだったと思われる。檀家制度から戸籍に移行した明治期以降の、当家・各世代の平均寿命というのをざっくりと算出してみた。誰か一人は60才以上生存しているが、1960年までを平均すると25才前後だった。これには少し驚いた。半分以上は幼少期に死亡している。昔は良かったなどとても言えんワ、と思った。

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【(参考)泉佐野市と交わる街道について】

当地と交叉する熊野街道・紀州街道・孝子越街道(・大川越)・粉川街道の経路は、参照図とGoogleMapで要確認。Wikipediaでは図示されていなかったはず。

街道名の粉川寺は西国三十三ヶ所巡拝の三番札所(二番は紀三井寺、四番は槇尾山施福寺)。途上で、京都大学原子炉実験所の広い敷地があり、泉佐野市市場から日根野〜土丸へ至る大木嶺道という道もある。

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【その他の参考資料】

以上の事柄は、既に紹介済みの書籍と併せて、以下の資料も参照した。

  • 「修験道小事典」宮家準・著、法蔵館
  • 「密教呪術完全公開」中岡俊哉・著、小学館
  • 「中国正史日本伝(1)」石原道博・編訳、岩波書店
  • 「歴史館いずみさの・常設展示案内」歴史館いずみさの・編

 

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